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二つのトラバース
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カメラ

歴史のあるエスプラナーデ、現在もその歴史は続いている

エスプラナーデの小屋の見取り図
 
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先住民の入植

エスプラナーデ・トラックも含まれるコロンビア山群には、クートニー部族/Kootenai Indiansが最初に定住したといわれている。1800年代初頭になると、毛皮交易のために白人の商人がこの地域に現れ、定住した先住民との交易を開始する。物資の運搬には付近を流れるコロンビア川を利用し、毛皮交易開始から約50年間は、取引量も増え続け、コロンビア川の交通量も多くなり、毛皮交易の最盛期となる。しかし、1850年代になると、徐々に毛皮の交易量が減少し、1860年代には、この地域の毛皮交易は終焉を迎えることとなった。

     
大陸横断鉄道の敷設

毛皮取引が終わるとほぼ同時期に大陸横断鉄道の敷設が始まり、コロンビア山群に鉄道会社の技術者、工夫などが入ってくる。この地域の大陸横断鉄道の工事は、1860年代に始まり、1885年に完成をむかえる。内陸部の平野部とは異なり、山岳地帯での工事は難航を極め、工事中の雪崩などで多くの犠牲者を出したことでも知られている。現在の国道1号線上の「ロジャース・パス / Rogerss Pass」のビジターインフォメーションセンターで、当時の模型や、写真を見ることもできる。

     
山岳史の幕開け

1885年に鉄道が開通すると、鉄道会社はロジャース・パス付近にホテルを建設し、観光客を迎える。観光客以上に、この鉄道、ホテルを利用したのが山岳家である。当時ほとんどの3000m級の山々が未踏であり、カナダ、アメリカや遠くヨーロッパから、初登頂を目指して山岳家達が殺到した。エスプラナーデからも見ることができる、コロンビア山群最高峰のマウント・サーサンフォード(3519m)が1912年に初登されると、このブームにも終止符が打たれる。このころになると、エスプラナーデ山脈についても登山記録の中に書かれ始める。

     
エスプラナーデ・トラック誕生

マウント・サーサンフォード登頂後、コロンビア山群の山々は静寂に戻ったが、1960年代に再び脚光を浴び始める。世の中では、ヘリコプターアクセスでのスキーやハイキングが盛んになり始め、次々に新しい場所が開拓され始めたことが大きく関係したためだ。そんな中、1980年に入るとウェイン・ビングハムとアリソン・ダキンによってエスプラナーデ山脈が再発見される。二人は、周辺をくまなく歩き、調査し、付近の地形が夏のハイキング、冬の山スキーに最適なことを確信し、エスプラナーデ山脈に山小屋を建てはじめ、1986年に2か所、1987年に1か所を追加し、エスプラナーデ・トラックがここに誕生した。小屋の建設とともに、付近のハイキングトレイルの整備もおこない、小屋開設後、2000人以上のハイカー、スキーヤーが、エスプラナーデ山脈での山を楽しんでいる。2007年度には新オーナー、ジョン・ベルを迎え、4か所目の小屋となるセンチュリー小屋を新たに追加し、更に魅力的なエリアとしての地位を確立する。

     
日本マーケットとの関わり

1986年にオープンしたエスプラナーデ・トラックは、1990年頭には既に日本人マーケット向けに紹介されている。発売当初からヤムナスカ・マウンテンツアーズが一括して営業、ガイド派遣を行っており、すでに15年以上の実績を積んでいるのが特徴だ。近年、日本での認知度があがり始めたエスプラナーデ・トラックは、2009度新登場のセンチュリー小屋まで大縦走する、グランド・トラバースが新たにラインナップとして加わり、注目度がますます高まっているエリアである。

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